審査員講評

審査員3名の講評を掲載いたします。

市川明氏

■総評

涼しいドイツから暑い日本に帰ってきたのは8月24日だった。京都学生演劇祭に参加するために。祭りはすでに始まっており、25日から観劇を始めた。参加劇団を3劇団ずつブロック分けするシステムをとっており、これがシステムとして機能すれば集客も増し、祭りももっと盛り上がるだろう。今年は10劇団が参加、ABCD、四つのブロックに分かれ、8月22日から27日まで3回ずつ上演の機会が与えられた。
残念だったのは、昨年は寮の裏手で行われていた屋台やパフォーマンスなどが今年度は姿を消したことである。祭りを彩る楽しいイベントであり、子どもたちも参加していただけに寂しかった。祭りを支える財政的な基盤がチケット収入であることは確かだが、高いという感は否めない。そのせいか客の数は昨年よりも少なく、ブロックによって差もあるが盛り上がりにやや欠けたのは惜しまれる。ただみんなでこの祭典を支え、手作りで運営していこうという熱意は十分に伝わってきて、こうしたぬくもりの中で芝居を観られるのは本当に幸せだと思った。
審査員として見ると、今年の芝居は去年と比べると全般的に小粒で、うまくまとめているが挑発力に欠けるというのが率直な感想だ。吉田寮の食堂のステージで、「いま」と「ここ」がスパークする尖った芝居にはなかなかめぐり合えなかった。そんな中で賞にはLPOCHの『溺れる』を推した。この芝居の持つモダニズムに感銘し、強いインパクトを感じたからだ。(劇評参照)
夏は終わった。さあ、新たな出発を。また会う日まで。再見! Auf Wiedersehen!
 

A-1 くろずこんび・T
『祝!2017!!【Kyoto】~愛なき約束の地~“R”』

タイトルは長すぎ。中身がぼやけてしまう。上演自体もややぼやけて感じた。芝居をよく知っている集団の舞台創作。仕込みの段階から芝居はすでに始まっている。白い幕を張り、本を両サイドに並べ、釘打ちをする。これらはすべて入れ子になった芝居の本体へと注がれていく。いいセンスだ。舞台は軍艦マーチのラインダンスから始まる。今のご時勢からして戦争批判のパロディでも始まるのかと思いきや、ただの芸らしい。それでも「生きて届かない乳酸菌」君(役名と思ったが芸名だった)など個性的な俳優のパフォーマンスは十分に楽しめた。これでいったん舞台がはけ、そこからとある学生劇団の新入生歓迎のための上演の準備過程が描かれてゆく。主人公の片岡と演出のポストを争う小田切の会話など、俳優のレベルは高いので芝居のラインは読み込めるのだが、ストーリーは広がりに欠け、インパクトは弱い。この劇団の力量からすればもっと高いものを望めそうなのだが。
 

A-2 劇団ACT
『ドリーム・ドリーム』

5匹(5人)のゴキブリが主人公。人間社会での苦渋に満ちた生活と悲惨な最期を見せて終わる。想定内の筋の流れと結末だが、芝居の仕掛けは抜群におもしろい。アンサンブルもよく、テンポもあって上々の出来だが笑えない。リアリズムにしがみつきすぎてコメディにならないのだ。みんなゴキブリ対人間をリアルに思い浮かべてしまうから、駆除は当然のことと思ってしまう。この図式を変える必要はなく、森山未來がカフカの『変身』で見せたようなクニャクニャダンスや星野源の恋ダンスでもいい、人間ではない存在ということを明確にわからせる何かが必要だ。そうすれば「ドリーム・ドリーム」は多様な広がりを見せるだろう。言葉も大切。怒鳴ったり泣いたりは禁物。ちょっと変わった動物語を作っては? 博士に人間語を研究させるなどすれば、中間的な存在として生き残りが可能かもしれない。いっぱいいろいろなアイディアが浮かんできた。もう一度チャレンジしてほしい。
 

A-3 LPOCH
『溺れる』

キーワードは:教師、『スイミー』、転校生、沈黙(場面かん黙症)。これらをつなぎ合わせると作品の世界が浮かび上がる。ちなみに場面かん黙症というのはある特定の場面・状況で話せなくなる症状である。主人公は油野/ユノという女性教師。日の名残りのようにおぼろげに残っている少女時代の回想から芝居は始まる。母親には何でも話せるのに、学校に行くと言葉が出てこない彼女。後ろの席はいちばん心地よい場所。自分ひとりで、隣の席は空席だからだ。そこへ転校生がやってきて、会話が成立する。はみ出し生徒と転校生の友情は現在封切り中の映画『50年後の僕らは』(トルコ系ドイツ人のアキン監督)に共通する。『スイミー』は小学生が発表会(学芸会)などでよくやる音楽劇。孤独なスイミーが同じような小さな魚を発見し、助け合って大きな魚を追い出す話だ。リフレインされるこのテクストから、「溺れる」という状況とそれを切り抜ける様子が想像される。教師になった今、彼女は子どもたちの悩みを理解できる教師として現場で日々力を発揮している。感心したのは油野とユノが時系列によって分けられた分身としては描かれていないことだ。少女時代と教師時代、自身の内面の声と実際の自分などが交錯しながら、さまざまな形で組み合わされ、ふたりに投影されていることだ。それによりふたりは多面的で不思議な輝きを放っている。体格の違うふたりが合わせ鏡のように演技するさまに、この作品のモダニズムを見出し、強いインパクトを覚えた。特に小柄なほうの女優さんに発信力を強く感じた。またこうした人たちが子どもたちのそばにいてほしいと思ったのは、演劇の持つ力だと感心した。
 

B-1 劇団抜きにくい釘
『Pot Putting Princess』

この上演は敢闘賞ものだ。歌や踊りもあり、語りや芝居もある。登場人物は多く、まとめるのが大変だったろうが十分楽しませてくれた。寝屋川に古くから伝わる民話『鉢かづき姫』がもとだという。日本昔話やグリム童話のような世界。継母が意地悪というのも日独の童話に共通なのかもしれない。ここでは迷信で鉢をかぶらされた娘が、父親の知らぬ間に継母に追い出される。みんなから妖怪と恐れられるが、最後は貴族の若君の愛を得て、鉢も頭から取れ、ハッピーエンドとなる。少し雑然としているので、語りの平面と劇平面をはっきり分け、たとえば上手(かみて)前面で、語り部が観客に物語り、下手(しもて)で俳優たちが演じるといった処理が必要だろう。複数の役を演じることもあり、観客への配慮から役柄を記す紙のカードをぶら下げているが、これは不要。かえって目障りなので、自ら名乗ったり、せりふの中でわかるように工夫することが大切だろう。『川の流れのように』など懐メロも登場し、昔話感を生み出して盛り上がった。ただ言葉が多すぎて全部説明していくのが少し重く感じられた。


B-2 ヲサガリ
『ヲサガリの卒業制作』

いちばん観客の心をとらえたのがこの上演だ。みんなライブ感覚で舞台を見ていた。立体的な舞台で、ユーチューバーが舞台奥の上面からさまざまな世界を俯瞰し、コントロールしていく。いきなりサカナクションの『アイデンティティ』がかかり、芝居の世界を構成していく。どうやら『卒業制作』という題は、憧れの的だったアイドルグループのリーダーの卒業と、長い間学生だった自分自身の大学卒業をかけているらしい。歌詞にもあるとおり、「見えなかった自分らしさってやつが解り始めた」というわけだ。登場人物の抱える問題が浮き彫りにされ、人間関係のおもしろさも見えてくる。さいころの目で場面が変わったり、遊びの要素も存分に取り入れられた良質のエンターテインメントだ。ただ芝居の要素は薄く、言い方は悪いが、他人のふんどし(流行のJ-Pop)で相撲を取っているという感はぬぐえなかった。ストップモーションやパントマイムを取り入れるなどの工夫も必要かもしれない。

B-3 後付け
『めだまやきくん大集合』

これはしゃれたコメディだ。とにかく笑えた。ふたりの女性と一人の男性、三人が織り成す会話劇。でもコントではない。何か大きな芝居へと発展していくような予感。こういう形でワークショップをしながら一つ一つの場面を構成していけばきっといい芝居ができるのだろう。何もない空間。ピーター・ブルックが言うように、必要なのは俳優だけ。演劇論をぶつけ合うような形で、最初の場面が進行していったのは興味深かった。秀逸だったのは、「京都タワーとともにある」と感じ、その喜びを語った二人の女性。絶妙な間をおきながら恋人のようにタワーに思いをはせる。男は哲学者のようでもあり、新興宗教の教祖のようでもある。何を言ってもすべて正しい「お言葉」として受け入れられる。音が場面の終わりを告げ、次の場面へとつながれていく。とにかく飽きることのない45分だった。女優陣の演技は俳優賞ものだ。

C-1 劇団なかゆび
『仮面の傍白』

「仮面」はその中身を暴いてみろという挑発だし、「傍白」は何よりも知ってほしいことを観客にだけ聞こえるようにささやくことだ。タイトルが謎解きを呼びかけている。客入れの段階からすでに芝居は始まっている。上手にドラム缶が置かれ、鎖とあかりにつながれ、縦のラインを形成する。男は血塗られた白い(囚人)服を着て、横への移動を開始する。「殺す」という言葉を繰り返しながら。彼はストーカーらしいのだが、だとすれば仮面の人物は「神秘」の中にいる女性なのだろう。プログラムに俳優名を「プライバシー保護の観点から控えさせていただきます」と書かれているのは、ちょっとしたジョークだ。中央のスライドに文字化されたテクストが映し出され、下手のジュークボックスから音楽が流れる。ドラム缶をたたく音が、心臓の鼓動のように観客に伝わる。ヴィトゲンシュタイン、サルトル、ベケットの言葉が文字通りテクスト=織物として表出する。最後にベケットの“Not I”が語られる。無言を貫いた女が、神のお告げにあったかのように突然、しかも途切れることなく話す。英語で! 唇と歯だけが浮かび上がる。ベケットの独白芝居は「クラップの最後のテープ」などで知られているが、ここには明白な聞き手=ストーカーが暗闇の中にいる。ベケットが求めているのは多義性だ。必要なのは特定化されない、観客それぞれの空間での追想。うーん、やりましたねー! こんなとがった芝居ができるなんて。でも先鋭すぎて追想する意識がすぐに消滅してしまった。やはり観客を引き寄せる何かが欠けている。

C-2 劇団明日の鳥
『ホントノキモチ』

どこにでもあるお話、きっと今日もどこかで起こっている話、だという。会話によって演劇が成り立つとすれば、それはとりもなおさず誰もがいちばん関心がある話題をテーマにした演劇だと言えよう。大学生の場合はきっと恋の話やおいしい食べ物の話で、場所はカフェか公園、下宿などである。女子会の様子やカップルの交際などが示されたりする。この上演でもやはり同じパターンで若いふたりの感情の機微が描かれている。その意味では「どこにでもある演劇」の粋を超えてはいない。中身もきわめて個人的な問題に絞られ、伸びやかさがない。俳優は懸命に演じていて好感が持てるが、枠を打ち破れない。ただ姉の存在が、演じた女優さんの雰囲気や演技も含めて、違う領域へいざなう鍵を握っているような気がした。台本に手を入れればもっと広がりが出てくるのではと思う。場面・状況が変わるたびに暗転になるが、この暗転が多すぎる。私なら暗転をやめ、観客が見ている前で道具や場面の転換をするだろう。センチメンタルなピアノ曲にも違和感を覚えた。
 

C-3 劇団蒲団座
『ラン・ラン・ランドリー』

ハプニングというか、事故があったのは上演が終わるまでわからなかった。台本、演出、主演をかねる女性が病気になり、入院したために上演不能になった。辞退を考えたが、演目を差し替えてとりあえず参加した、というのだ。これは終演後に聞かされた。確かに台本は未完成で、上演時間も25分と短かった。文字通りの「ショート・ショート」だ。上演中に観客の暖かな励ましのようなものが感じられ、何かがあったことを感じた。だとすればこれこそ観客のファインプレーではないか。芝居が舞台と観客席で構成されているということを生で実感した幸せな時間だった。状況を反映したかのような舞台構成で、演劇祭に無理やり参加させられた男と女の掛け合いのコントが展開される。椅子が二つ置かれただけの空間。質屋蔵の場面のようにところどころ「浪花言葉」を取りいれて、転調を図っている。秀逸だったのは最後の「脱出」の場面。フェードアウトして終わるこの場面で、ふたりの上演にこめた思いが伝わってきた。拍手を送りたい。

D-1 劇団西一風
『お盆』

昨年『ピントフ』でうならせた「劇団西一風」。再会が大いに楽しみだった。タイトルは『お盆』。このすっきりしたタイトルにイメージがぐっと湧いた。畳が置かれた台座を組み合わせ四畳半の部屋を作るのだが、舞台準備に結構手間取っていた。組み合わせが間違っていたみたいだが、「ああ、これはだめだ」と思った。だが芝居が始まってしまうとこちらのほうが芝居をどう組み立てたらいいのか戸惑ってしまった。難解な芝居だ。祖父の何十回忌かに集まった三人の孫。ひとりはトナカイの被り物をしている。扇風機や蚊取り線香が置かれた民家。四畳半の高台の舞台は見た目にもきれいで効果的だが、そこから下りて履物を履いて玄関や台所に行くというこの芝居のコンセプトに必要だ。宅配便の箱の中にはお盆に食べる巻き寿司。「手に何も持たないで何に打ち勝てるか?」という禅問答のような会話が、孫の間で繰り返される。イカやタコの例まで持ち出され、舞台はシュールな様相を呈してくる。これはチェスや将棋の世界なのか? 台所に行ったはずの一人が玄関から入ってきたりする。台所に運ぶお盆の中身も少しずつ変わっている。時間と空間の交錯。「迷路」を探る循環構造。これはもうベケットの世界だ。でも閉塞感だけが迫ってきて、行き先が見えてこない。期待値が高かっただけに消化不良に終わった舞台に未練が残った。

D-2 劇団洗濯氣
『ほしのひのもと』

『見上げてごらん夜の星を』という歌が昔、流行った。「僕らのように名もない星がささやかな幸せを祈っている」という歌だ。夜間飛行で次第に消えていく星の光や人家の明かりは生命のともし火に重なる。この芝居はそうした「星」の中で自分を際立たせようとする“りん”の物語だ。どうやら題の「ひのもと」には日本というわれわれの居住空間が表されている。大家のひのもと(日の本)が開設した日の本ハウスには、何人かの寄る辺のない人たちが大家の慈善にすがりながら共同生活を送っている。三角公園で炊き出しをふるまわれる釜ヶ崎の人たちのように。食堂が語らいや仕事・勉強の場になっている。その中には高校生の日の本の息子もおり、父親が時々様子を見に来ている。男とその養女。さらには子どもがいながら離婚し、シングルマザーになった40くらいの女性もいる。なかなか再生への一歩を踏み切れない女性を、若い俳優さんが見事に演じていて感心した。みんなが優しさの中で生きている。だが作品はヒューマンで調和的な感動のドラマとしてエンディングしない。それとはまったく違う展開を見せて終わる。主人公の“りん”だけがこの世界にはどうしても馴染めない。斜に構えた“りん”は優しさや善意の裏側をどうしても探ってしまうのである。“りん”は自分が明るい星になって輝くために、ほかの小さな星を消してしまう。テロリストとして“りん”は燃え上がり、瞬時に消える。それが何を意味するのか、ずっと考えながら帰路に着いた。劇場が一晩の陶酔的な麻薬販売所に終わらなかったことを喜びながら。

プロフィール

1948年生。大阪大学名誉教授。1988年から大阪外国語大学外国語学部に勤務、2007-2013年大阪大学文学研究科教授。
専門はドイツ文学・演劇。ブレヒト、ハイナー・ミュラーを中心にドイツ現代演劇を研究。近著にVerfremdungen(共著Rombach Verlag, 2013年)、『ワーグナーを旅する──革命と陶酔の彼方へ』(編著、松本工房、2013年)など。翻訳に『デュレンマット戯曲集 第2巻、第3巻』(鳥影社、2013年、2015年)など。関西の演劇に新風を吹き込もうと、多くのドイツ演劇を翻訳し、ドラマトゥルクとしてサポートしている。ドイツ語圏演劇の個人訳「市川明コレクション全20巻」は現在4巻まで刊行されている。

菱井喜美子氏

■総評

京都学生演劇祭2017に参加されました劇団及びスタッフ並びに実行委員会の皆々様、お疲れ様でした。
私は22日・23日の二日間で11公演、それも全部初日の舞台を観させてもらいました。
それは楽しい充実した時間でした。
この初秋の頃は、高校でも学園祭でクラス対抗の演劇コンクールがあり、私も演技指導で上がるのですが、高校生とは違いやはり大学生ともなれば、さすがに装いが違うのを感じました。
それぞれの舞台が、自分達の主張やカラーをしっかり持って、独自性を発揮していることです。それは子供から大人へと脱皮した感じで、中にはプロの道に移行することが可能な人も見受けられました。
私が審査員などとはおこがましいことですが、百人居れば百通りの意見があるように、どの批評が正しいと言うものでもないと高を括ってはいますが、見方のハズレはお許しください。
しかし私は、皆さんがここに集い、互いに競い合い高めあっている姿とその貴重な時間を、観客として共有出来ましたことを、深く感謝しています。
昨年の全体の舞台がどうだったのか私は知りませんが、やはり京都の学生劇団が、このように一堂に会することはどうしても必要なことだと思います。
互いに意地もあり負けまいとの思いから、気持ちの入った良い舞台が創造出来ていたのではないでしょうか。私には今も一つ一つの舞台をはっきり思い浮かべることが出来ます。
演劇を創造して行くのは、大変な労力を要しますが、それぞれの劇団が自信と誇りを持って、これからも活動されて行かれることを願っています。
また、この祭典も毎年の維持は大変でしょうが、継続を切に願っています。
素晴らしい舞台をありがとうございました。

A-1 くろずこんび・T
『祝!2017!!【Kyoto】~愛なき約束の地~“R”』

京都のとある大学の学生劇団に所属する男、片岡を中心に他の部員4名で織り成す、日頃の部活動の様子や悩みが、綿密に描かれている。
幕開きは、舞台の仕込み、装置の組み立てから始めるという、演劇にのめり込んでいる人間だけがよく知っている全てが吐露されている作品で、同じ演劇界に身を置く立場の私にはよく分かる内容であったし、「面白い作品を作りたい」との思いも共通する。
ストーリーが、10数シーンの積み重ねで構成されているのだが、それらが並列的に並べられている感じがして―――片岡は誰とも争い、葛藤することなく、自分一人の中で、もがき苦しみ、最後は東京へ行こうと決心するようだが―――「独白」が多く使用されているせいか、少し盛り上がりに欠けるような気がした。
舞台全体は、多場面にも拘わらず、懸命に工夫が凝らされ、ソツなく纏められていて力作だった。
 

A-2 劇団ACT
『ドリーム・ドリーム』

とにかく、キャスト達のチームワークも良く取れていて、それぞれの役柄も演じ分けられていて、しかも上手でもあり、面白くてあっという間に観せられてしまった。
だから『ドリーム・ドリーム』の題名からも察せられる通り、ハートフルゴキブリコメディーとしては、成功しているのだろう。
しかし内容的に、何故“ゴキブリ”を持って来なければならなかったのかと言う点で突っ込まれると、考えが甘かったのではないか。
何故なら、一般的にバイキンをまき散らす恐れのあるゴキブリは、害虫として人間界からは駆除されて当然のことだ。
その嫌われ者のゴキブリの夢に、人間との共存や、人種差別や殺しあいのない世界への憧れがどうして入り込める余地があるのか、―――少し無理があるように思える。
観客の受けを狙ったプレイやエンターテイメントな要素を避けて、オーソドックスに、脚本の要求する劇世界を、対話でもって成り立たせ行く姿勢は、舞台に余裕と豊かさを感じさせて、好感の持てる良い舞台だった。

A-3 LPOCH
『溺れる』

母親には何でも話せるのに、他の人には言葉が喉に閊えて出て来ない、そんな緘黙症の“油野”という女性の、子供の頃から大人になって教師になるまでの葛藤を、自身の内面の声として、“ユノ”という影の存在を登場させることにより、話が進められて行く作品。
そこで感心したのは、小学校の国語の教材、魚の「スイミー」という一遍の詩を音読させながら、しかも何度もリフレインさせることにより、“水に溺れる”ということと、体がこわ張って動けなくなる“油野”をダブらせて行く作劇の方法が効果的だったことだ。
それと三名の出場者が、“油野”が男子高校生との出逢いによって、この緘黙症を乗り越えるという感動物語に突き動かされてか、感情のこもった演技で、よく頑張っていた。
舞台上で、何か分かり難い所や停滞感があって退屈になるのは、この緘黙症が解説的・説明的になりがちで、問題を扱った作品としての息を出なかったからか、そんな感じがした。
作者であり“ユノ”役も演じていた青倉玲依さんは、魅かれるところがある人だ。

B-1 劇団抜きにくい釘
 『Pot Putting Princess』

「一寸法師」や「浦島太郎」などの収められている日本の「御伽草子」の中に、「鉢かづき姫」も入っているらしいが、これは「寝屋川の民話」でもあるらしい。
長者夫婦には子供がなく、観音様にお参りを続けてやっと女の子を授かった。
やがて母親は観音様のお告げ通り、死ぬ間際に娘の頭に鉢を被らせて亡くなる。
その後、娘は新しくやって来た継母から家を追われ、一人数奇な運命をたどることになる。
が、最後には位の高い中将の息子に情けをかけられ、頭の鉢も割れて、二人は結ばれると言う、めでたしめでたしのお話。
「何も難しく考える必要はありません。ただただ、たのしんでくださればそれでいいのです。」と作品紹介にある通り、沢山の出演者が一つになって、演じながら踊ったり歌ったりとそれは見事なもので、誰にでも良く分かる楽しい舞台だった。
欲を言えば、今回の観客はインテリ層であることを考慮に入れて、大衆的な民話に終わらせずに、何か捻りのある独自の解釈があっても良かったのではないかと、ふと思った。
 

B-2 ヲサガリ
 『ヲサガリの卒業制作』

作品紹介に「今の私たちの足元を見つめる作品」とある。
大衆の憧れの的であるアイドルグループに現を抜かし、大学を留年し続ける学生が、そのアイドル“りょうちゃん”のアイドルの卒業で、やっと自身の卒業を意識するという、「現代社会」の若者の姿が捉えられていて面白い。
話の内容というよりは、今の社会の現象面、風潮が映し出されているところが親近感を覚えるのだ。
ユーチューバーやネットで繋がるオタク達、ペンライトで熱狂するファン、J-POPの流行曲が流されたり等々。
また色付きサイコロ箱のいろいろな組み替えなどでシーンが変わったり等々。
観て聞いて楽しませる工夫がいろいろ仕組まれていて楽しかった。
観客からも笑いが多かったのは、共感するところが多かったのだろう。
セリフの所々が不安定なのが気掛かりだったが、稽古不足なのか?
また、学生演劇らしい作品ではあるが、自分の周囲の事だけに終始してしまっているようで、そこが少し残念なところだった。

B-3 後付け
『めだまやきくん大集合』

“コメディーをやっていきたい”そうだが、三人の出演者で、数本の短編コメディーを並べて、45分間の時間と空間を埋めようとしている。
三人はそれぞれに個性がはっきりしていて、面白いと思った。
しかし、2~3本続けて観てくると、内容的にも同じような繰り返しに感じられ、演技も同じ人間が演じるのだから、話は変わってもやはりどうしても表現が同じに見えて来る。
これが幾組かのメンバーで組まれた短編集になっていたら、もっとボリュームも加わり、45分間の見応えのあるものになっていたのではないだろうか。
またはこの短編集を、1本のコメディーとして繋ぎ直してみたらどうだろう。
でも知的なコメディーは、やはりこの演劇祭だから観られるのだなとつくづく思わされた。

C-1 劇団なかゆび
『仮面の傍白』

「傍白」とは、“舞台で相手には聞こえないことにして、観客にだけ自分の考えを知らせる形で述べるセリフ”とあるが、この『仮面の傍白』は難解だ。 
スケールの大きさは感じられるのだが、……“殺す”という言葉が、血で染められた白い服を身に着けた男によって繰り返されたり、哲学的な文章がプロジェクターで写し出されたり、仮面の女が英語で本を読み上げたり、……まるで西洋の芝居の様相を呈して来る。
面白いと思ったのは、その英語で延々と読み上げられて行く言葉が、内容は理解できないのだが、リズミカルでまるで音楽を聞いているようなのだ。
後で聞くところによると、その本の中身はベケットだそうで、翻訳したものをプロジェクターで写し出してくれていたら良かったのにと、残念に思う。
“実験劇場”として学ぶことがあった。

C-2 劇団明日の鳥
『ホントノキモチ』

作品紹介に「ありふれた、どこにでもあるおはなし」とあるように、“若者の異性を好きになった時”、という解り易い内容で、出演者もみんな等身大の素直な演技で、観ていて微笑ましく、ほっと温もりの感じる良い舞台だった。
気になったことは、店で常時流れている音楽の音量が大きすぎたり、シーンの転換の時に、照明のミスがあったり、暗転だからと言って、置き道具の配置換えを、登場人物がいちいちしていたが、もう少し何とかならなかったのか、少なくしても良かったのではないかと思ったりした。
 

C-3 劇団蒲団座
『ラン・ラン・ランドリー』

上演台本が出来上がらなかったそうで、急遽 ショート・ショートで逃げ切る作戦のようだが、その男女二人の出演者に、場内からは笑いが起こる。
それも学生仲間達の暖かい応援のメッセージなのだ。
半ば即興的に懸命にセリフを繋ぎ、時間と空間を埋めて行く姿に、驚きと共に、これもまた難しい事だろうなと感心する。
俳優にとっては良い勉強になるだろうな。
 

D-1 劇団西一風
『お盆』

「ある年のお盆。亡き祖母の家に集まった孫たちを小さな謎が襲来する。」と作品紹介にはある。
確かに舞台は何処かの田舎の家の、古びた畳や箪笥に四角の和式テーブル、夏の風物の扇風機に蚊取線香、お盆の南瓜の飾り付け等々、日本の懐かしい雰囲気が舞台から伝わって来る。
ぼそぼそと離される会話。
意味があるのか無いのか分からない「手ぶらで戦えば、何に勝てるか」等のセリフ。
宅配便の四角い箱の、中には巻き寿司。
舞台セットの中をくるくる廻って登退場する人物。
それらが何とも不思議な世界を醸し出して来て、前衛劇風で、魅せられてしまう面白い作品だった。
少し残念だったのは、動物の大きな面を被っていたり、真横に座りっぱなしであったりで、セリフが所々聞こえ難い所があった。

D-2 劇団洗濯氣
『ほしのひのもと』

舞台で行われている事は一つ一つ解るのだが、主人公の「りん」という娘が、一体何をしてどうなったのかという事がよく理解できないでいる。
台本を見せて欲しいと思うのだが。
作品紹介には
“私たちは皆星の子です。動物も草木も、全てです。
「生きる者の唯一の価値を奪え」
「りん」は自らが明るい星になるために、自らを燃やして輝くことにしました。
それが世の中の為なんだって———“とある。
「りん」は誰かから「生きる者の唯一の価値を奪え」と言われたのか、………話の終わりに神と名乗る者が出て来るが、………。
「りん」は自分に親切にしてくれて人達を、自らが明るい星になるために殺したのか………等々、教えて欲しい事が幾つかあるだが……
でも舞台全体としては、それぞれの出演者が個性によく合った役柄を、生き生きと演じていて面白かったし、食事の場面では、テーブルに箸を置くだけで食べる事にするなどと、感心させられた所も多々あって、団員全員が一つになって取り組んでいる様子が強く感じられた。

山口浩章氏

■総評

8年もの間、京都で学生演劇祭が続いているということにまず、敬意を表します。
私が学生劇団に携わっていたころにはなかった横のつながりができるというのは、京都の学生劇団にとって非常に有益だと思います。
ただ、初日に吉田寮食堂に行ったときに沢さんが会場入り口で立て看板にチラシを張っていたり、暗くなるころ入口が見えないのではと心配して、ライトを手配しているのを見て、それぞれ俳優や作演出として参加している人自身が実行委員も兼ねていることもあるようなので、全体を見るということは難しいと思いますが、学生の実行委員自身が、観客のことを考えて、そうした準備ができると良いと思いました。
私が見たタイミングがたまたまそうなのかもしれませんが、空席がかなりあったので、実行委員会としての広報、動員に向けた工夫が必要かもしれません。
いずれにしても、学生演劇祭は続いて行ってほしいので、金銭的な負担が少しでも減るように、参加団体頼みでない宣伝や、ブロック間の空き時間の有効利用などがあると盛り上がるかもしれないと思いました。
 

A-1 くろずこんび・T

『祝!2017!!【Kyoto】~愛なき約束の地~“R”』

一昨年、京都学生演劇祭で大賞をとった作品のリメイク。
開演前の舞台設営から観客に見せる演出や、映像、物語自体も学生劇団を舞台としていることなどから、出来上がったドラマではなく、まさに「いま、ここ」で生まれている作品というのがメインコンセプトで、今年の上演もそれを踏襲していると思われる。
一昨年は、いわゆる「あるあるネタ」が多く、その時の観客の多くが共感して、大賞になったものと思われるが、本年の上演では観客の「いま」と、舞台上の「いま」がそれほど重ならなかったように感じられる。
「写ルンです」で女子のスカートの中を撮ろうとする学生や、「東京へ行く」ことが成功であるような価値観は同時代性を遠ざけるし、台本を読みもしないで次回公演の作品を決める企画会議は台本締め切りに向かう時間を無意味化してしまう。
 音楽がかかると俳優のセリフが聞こえなくなってしまう。ポケットからスマホが出ると音が大きくなるというような、音響効果の細やかさを、俳優のセリフと音楽の音量のバランスにも発揮してほしかった。
作品の再演や、リメイクは悪いことではないのだが、この作品に関しては、「同時代性」という観点から、2年で劣化してしまったように見えてしまった。

A-2 劇団ACT
『ドリーム・ドリーム』

それぞれ夢を持ったゴキブリたちが、最終的には人間に殺されてしまう話。
ゴキブリの死因が、人間よりもクモやネズミなど他の動物による捕食の方が遥かに多いという現実はさておくとしても、もう少し、「ゴキブリならでは」という視点、演出(例えばゴキブリ目線の人間の動きや話す速さは私たちが見聞きするのよりも遅いのではないかとか、ゴキブリたちなので舞台上の立ち位置も全員壁に張り付くようにしか立たないとか)がないと、そもそもなぜゴキブリなのかが分からなくなってしまう。
また、それぞれのキャラクターの持つ夢や行動が「気分」で処理されてしまうのも残念。
例えばレスターが罠にかかるのは人間の研究に熱心すぎて、人間の罠にも興味を持ち、危険だと分かっていても近寄らずにはいられないとかあると、人間研究という夢のために努力している姿として納得いくと思うが、理由を聞かれて無視することで処理するのはもったいない。
同様に人との関係性の変化、共存を望むというトーマスの夢は面白いが、それにしては姿形が違うから、人間はゴキブリを殺すというのは、民族問題などは想起させるものの、あまりに安直で、本当にそれが理由なら、人間は姿形が違うから犬や猫も殺しまくらねばならないことになる。
例えばトーマスが、人間に可愛がられている動物とゴキブリとの違いを考え、「素早く動くのをやめよう」とか、「益虫」になるために毒を持った虫と戦うとか、「人間語」を学ぶとか具体的な行動があったうえで殺されるなら、同情もできるのだが、「夢」はあってもそれを語るだけで、そこに向けた具体的な「行動」が示されないので、「夢を持った者たちが、おかまいなしに殺される」悲しさも虚しさも伝わらない。
トーマスが何か上の方の誰かに悩みを話していた場面で「おお、トーマス君はすでに人間の女の子と話し合いを始めているのか!」と『借りぐらしのアリエッティ』のようなことを想起したが。
 

A-3 LPOCH
『溺れる』

開演直後、『幽遊白書』の飛影か『HUNTER×HUNTER』のフェイタンかというような衣装、思わせぶりなセリフ、さらにはオープニングの変なダンスみたいなもので、悪魔か死神かが出てきて「溺れてしまった誰かを救えなかった」とかいうお芝居かと、期待値がだだ下がったが、見ていくうちに、繊細過ぎて他者とうまくコミュニケーションが取れない主人公の、他の人からは何でもないが、本人にはとても劇的すぎる人生を描いた作品だと分かり、ぐいぐい引き込まれた。
「溺れる」というタイトルにもあるように、そうした劇的場面で流れる水の音も、「吹き出す汗」か「おしっこ漏れちゃった」音のように妄想できる。
また、これらの内的におそろしく動的なドラマを、説明ではなく的確に体現していた出演者の演技にも大きな魅力が感じられた。
そう考えると、上記の中二病的衣装も、役柄を抜け出たボケと突っ込みのようなメタ表現が滑ったことも、彼らの「生きにくさ」として感じられ、演じられているユノ(油野)の生きにくさに繋がり、ほほえましくさえ見えた。
もちろん、動きやミザンセーヌ、構成など未熟な点は多々あり、私の基準では作品の質は決して高くないし、上記の私の印象(妄想)は製作者側の意図しないところかもしれないが、観劇後の良い後味は、題材として取り上げたものを表現せずにはいられないという強い動機と、そこにむけた真摯な視線によるものだと思われる。

B-1 劇団抜きにくい釘
『Pot Putting Princess』

民話『鉢かづき姫』を舞台化したもの。
登場人物が多く、俳優が一人何役か兼ねるのは良いが、体の前につるした紙に役柄を書いておいて次々にめくる手法が有効かどうかが疑問。少なくとも今回の観客には紙がなくてもその時何の役かは分かると思うので、役柄を説明する以上の効果が無くては、その演出法の意味がなく、また紙に書かれた役柄によって役が記号化されてしまい、俳優の身体が役によって変化しない、あるいは変化していないように見える。つまり、ナレーションを言っている時も、父や母を演じている時も俳優の身体は同じに見えてしまった。それぞれの役もステレオタイプで意外性がないので、猶更紙での説明が不要と思える。
物語の重要な要素である、鉢かづき姫の気の毒な要素、鉢の重さ、声の出しにくさ、視覚が遮断されているなどの要素が全くないので、鉢かづき姫が幸せになっても「良かったね」とならない。
踊りのシーンなどの時に狭そうなので、舞台中央の台はもう少し小さい方が良いと思う。
色々な演出方法を試すのは良いので、それが物語と観客をどう繋ぐのか、有効な手段かどうかの取捨選択ができるとよいと思います。
 

B-2 ヲサガリ
『ヲサガリの卒業制作』

推していたアイドルを卒業させることで自分たちも少し卒業する物語。
抽象的な舞台を上手く使って具体的な場所を想像させることができていた。叫ぶ部分も人物の気持ちを表すのに効果的だったと思うが、姉のセリフと音楽が重なるところは叫ぶ瞬間だけ音量をあげて、姉のセリフは聞かせた方が良いと思う。
それぞれ登場人物が皆少しづつ問題や不満を抱えながらも、他人を気遣う優しさを持っていて、劇作上の悪い人間などを設定しなくとも、人間の苦悩は描けるという良い例。
ラストに向けて盛り上がっていく流れも分かりやすく、よく出来たエンターテイメント。

B-3 後付け
『めだまやきくん大集合』

三人の俳優のバランスがとても良い短編集。
状況が不条理であってもきちんと設定されており、演技がしっかりしているので、景色や背後の人間関係が想像でき、舞台空間以上の広がりを感じさせる。
それぞれの短編どうしの繋がりが、嫌みでない程度にあって、一枚のアルバムを聴いているような感覚になり、これも観るものの妄想を助ける。
特に、リアクションのすれ違いが面白い。
 

C-1 劇団なかゆび
『仮面の傍白』

開演前、開演直後の、観客に直接語り掛けるスタイルや、ドラム缶の演出から、観客と演者の関係性を近づけるような作品かと思ったが、煽るようなセリフの吐き方からは形式的なアングラのようなものが感じられ、舞台奥に投影される文章を「読む」、英語で朗々とテキストを読むのを聞くという行為が、観客が主体的にかかわる行為として適切ではないように思われた。
あれだけの英語のテキストをぶれずに読む俳優の強度は凄いが、英語が分からない私には、割とよく聞くテンポと、割とよく見かけるヒステリックさとしか感じられない。
全体として様々なテキストの並列に見えて、製作者の考えるそれぞれのテキスト同志の関りが見えず、血糊のついた衣装、ドラム缶、煽るようなセリフから、ある事件の犯人が長々と自己弁護をしているようにしか見えなくなって、交感不可能な対象として見えてしまった。

C-2 劇団明日の鳥
『ホントノキモチ』

オープニングのシーン、リエがエアコン我慢してるのに、サトルが気づかずつけてしまうシーンで、二人のすれ違いを見せるのは分かるが、リエは窓も開けずにいるのだろうか、窓を開けているなら、サトルが“気づかず”エアコンをつけるのは無理があり、窓を開けていないならリエが単にエアコンを我慢しているというのに無理が出てしまう。
こうした細かな不自然さを無視したシーンが多いと、作品全体の説得力も失ってしまう。
一つ一つのシーンが短く、場面が頻繁に変わるので、物語は進むが、深まらない。
ユウナをけしかける作戦はどうなれば成功なのか分からない。結果としてユウナにサトルが惹かれたとして、それまで浮気していたことにはならないし、親友であるユウナのサトルに対する思いにさえ気が付かないリエの自分勝手さだけが見えてしまう。
コミカルな雰囲気を音楽で作るのは、アニメでは可能だが演劇だと難しい。

C-3 劇団蒲団座
『ラン・ラン・ランドリー』

本番直前に問題が発生して、それでも無理やり演劇祭に出る二人のドキュメンタリー演劇。大変な状況の中、参加中止ではなくなんとか上演したのはえらい。
『脱出』は演劇として成立しているが、それ以外は、場所や人間関係の設定が表現できていないので、どちらかというとスタンドアップコメディに近い。
思いは伝わるが、演劇的な景色が見えてこないのが残念。
それぞれのコントの設定が活かせれば良くなると思う。
 

D-1 劇団西一風
『お盆』

あの世とこの世の境界線が曖昧になるように、色々な境界線が曖昧になり、バグる話。
高さを上げた畳の上にテーブル、その上にオセロと幾何学的な構造の舞台が美しい。
舞台上で物語らしきものは進行しないのに、次々に発生する出来事と、各所に見受けられるヒントのような言葉だけで観客の興味を切らさないのは見事。言葉に対する感覚が独特で、意識や感情のやり取りというよりは言葉そのものの選択も興味深い。
こうした不条理で静かな世界はベケットやイヨネスコの戯曲のような世界を思い浮かばせるが、現在のような『意味や意義』に重点を置く観客からは受け入れられにくいかもしれないが、自分にとって意義あるものなら続けていって、いつか誰も観たことのないようなものを創作してもらいたい。

D-2 劇団洗濯氣
『ほしのひのもと』

世界に受け入れられていないと思う主人公“りん”が、唆されて、テロを起こす話。
“りん”は親切な日本家の人たちに心を動かされるが、結局テロはしてしまう。
親切な人たちというのが、言葉の上だけで、こちらから見ると、「お金で解決する人たち」「自分のことは棚に上げてひとに説教する人たち」「弱さや他人のせいにして自分は悪くないといいはる人たち」のように見えてしまう。ラストで“りん”が殺してしまった人に「私の中で生きている」的なことを言うのも、「お前がそれ言うの?」となってしまう。
創作する際に、「いいひと」を聖域にしてしまわずに突っ込んでいけると説得力が増すと思う。

プロフィール

1973年生。立命館大学在学中に山口吉右衛門の名で初舞台を踏む。卒業後劇団飛び道具旗揚げに参加。俳優、演出、脚本執筆などを行う。2005年より演出家としての活動を専門にし、2007年『このしたやみ』を結成。2009年より大阪大学大学院にて演劇学を専攻、2010年修士号を取得、2011年の利賀演劇人コンクールにて優秀賞を受賞、2013年よりロシア、サンクトペテルブルク国立舞台芸術アカデミーのマギーストラトゥーラの一期生として留学、2015年学位を取得し帰国。俳優の身体と劇の構造に深く関係する空間造形により、言葉に出来ない関係性や感覚を具体化する手法で、その作品は国内外で高く評価されている。

応援コメント

菱井喜美子 様

この度は、「京都学生演劇祭」の審査員に加えて頂き、光栄なことだと喜んでいます。

私は50年、この京都の地で演劇に携わって来ましたが、そろそろ引退も囁かれる歳です のに、自分達のスタジオを使用してくれる数多くの若者の創造活動に触れることによって、 そのパワーを貰いながら 、今なお現役で「舞台俳優」を勤めています。

ところで、学生演劇祭の舞台は、毎年何本か観せてもらっていますが、古参の私達では 思いも及ばない、発想の斬新な作品に出会う事ができ、それらから大いに刺激を受けながら、多くのことを学んでいます。

そして「若い演劇人の中から新しい演劇は生まれて来るのだ」との思いを、新ためて確信 しています。

今年は参加される全作品を観せて頂く事になるのですが、世界へ向けて発信する若い世 代の演劇精神は、どんな舞台を創造して来るのだろうかと、 期待に胸を膨らませています。


プロフィール

1965年より、人間座の俳優として活動。下鴨にある人間座スタジオの管理・運営を行う。

人間座について

人間座は1957年7月、おもに京都大学の学生劇団出身者と、一部専門演劇人の有志参加を得て結成。これまでの主たる上演作品はチェーホフ、イプセン、モリエールなど、近代リアリズム演劇、ないしは西洋古典演劇などで、また一方では、日本の現実を掘り下げた「創作戯曲」を同時に上演。「霰の谷に」をはじめ「カルメンになりたい」など、座の生み出した10数本の創作戯曲が「田畑実戯曲集」として汐文社より出版されている。1999年5月には、創作の場、上演の場として「人間座スタジオ」を開設。演劇の発展に少しでも貢献したいと考え、スタジオを開放し、若手演劇人をはじめ、たくさんの方々に上演の場を提供している。


山口浩章 様

2015年以来2度目の審査を務めます。山口浩章と申します。

 前回の事前コメントにも書きましたが、実は私自身学生劇団時代から、やっかみ込みで、あまり賞とか審査員とかを信じていません。

 丁度この事前コメントの依頼を受けたとき、私たちの団体「このしたやみ」は、ロシアツア―の最中で、上演作品の一つは10年前に、あるコンクールで上演して、けちょんけちょんに言われ、賞を貰えなかった作品でした。

 もちろん、10年の間に出演者や私も経験を積んで、初演時そのままの作品ではなくなっているとは思いますが、その作品に4回の公演で計1500人の観客が足を運び、上演後の拍手は鳴りやまず、出演者はロシアの観客にサインと写真をせがまれ、州の文化大臣から感謝状を貰い、国営テレビや地元メディアのインタビュアーに囲まれ、お芝居を見に来てくださった日本総領事と面会するなど、10年前に「ふざけんな!」とヤケ酒飲んでいた時にはとても想像できなかった状況になりました。

 要は観客や戯曲、自分自身や一緒に作品に関わってくれる人たちと向き合い続けることが、一度の審査結果などよりもよほど大切なのじゃないかと思うのです。

 審査員を引き受けておいて身も蓋もないようなコメントですが、皆さんが向き合うべき観客の一人として、あるいは、むかし学生演劇をやっていて、今も続けているおっさんの一人として、この演劇祭に参加できたらと思っています。

プロフィール

 1973年生まれ。立命館大学在学中に山口吉右衛門の名で初舞台を踏む。卒業後劇団飛び道具旗揚げに参加。俳優、演出、脚本執筆などを行う。2005年より演出家としての活動を専門にし、2007年『このしたやみ』を結成。2009年より大阪大学大学院にて演劇学を専攻、2010年修士号を取得、2011年の利賀演劇人コンクールにて優秀賞を受賞、2013年よりロシア、サンクトペテルブルク国立舞台芸術アカデミーのマギーストラトゥーラの一期生として留学、2015年学位を取得し帰国。俳優の身体と劇の構造に深く関係する空間造形により、言葉に出来ない関係性や感覚を具体化する手法で、その作品は国内外で高く評価されている。

市川明 様

「いま」と「ここ」がスパークする空間へ!

研究者として生活していると、ともすれば狭い空間に閉じこもりがちだ。人と会うことも少なく、外の世界もなかなか見えてこない。そんな閉鎖された空間を打ち破ってくれるのが劇場であり、演劇祭だ。一生かけても出会わないような人たちや異次元の世界・時代を芝居というパノラマの中で見せてもらえるからだ。だから今回の京都学生演劇祭もわくわくする。京都の学生劇団が一堂に会して若い力をぶつけるのだから。どんな新しい作品や解釈が飛び出すのやら? 演劇の「いま」と「ここ」が空間でスパークするのを大いに楽しみたい。トイ!トイ!トイ!

プロフィール

1948年生。大阪大学名誉教授。1988年から大阪外国語大学外国語学部に勤務、2007-2013年大阪大学文学研究科教授。

専門はドイツ文学・演劇。ブレヒト、ハイナー・ミュラーを中心にドイツ現代演劇を研究。近著にVerfremdungen(共著Rombach Verlag, 2013年)、『ワーグナーを旅する──革命と陶酔の彼方へ』(編著、松本工房、2013年)など。翻訳に『デュレンマット戯曲集 第2巻、第3巻』(鳥影社、2013年、2015年)など。関西の演劇に新風を吹き込もうと、多くのドイツ演劇を翻訳し、ドラマトゥルクとしてサポートしている。ドイツ語圏演劇の個人訳「市川明コレクション全20巻」は現在4巻まで刊行されている。