演劇を観た後、何を思うでしょうか。誰しも「面白かった/面白くなかった」あるいは「楽しめた/楽しめなかった」を出発点として、次に「なぜ」と問うはずです。その答えを自分自身の未熟さに求める人やそれどころか「なぜ」という問いさえ立てずに劇場を後にして、日常へ帰っていく人もいます。しかし、その状態では観客として演劇を楽しむことには限界があります。「なぜ」という問いの矛先を自分ではなく、勇気を持って作品に向けること。そうして、演劇と向き合い続けること。そうすることで、間違いなく演劇の楽しさは無限に拡がっていくはずです。
演劇は、消費の対象ではありません。作り手は自由に作り、受け手は自由に解釈する。誰にもその自由を脅かすことはできないのです。批評会Kritikiは「受け手の自由」を私たちが手に入れるための、ほんの少しの後押しなのです。



■from 劇団明日の鳥(音嶋達斗) to くろずこんび・T

ついに始まった京都学生演劇祭、自由と混沌とエアコンのうなりがうずめく吉田寮食堂
Aブロック一番手はくろずこんび・Tさんでした。
 
あらすじ
演劇を愛する劣等大学生、片原はひとつの夢を見ていた。それは「自らの所属する劇団で作演となる」ことであった。演劇は楽しければいいという先輩、優しくしっかりした同回生、応援してくれる後輩、はたして片原は無事作演の座に就くことができるのか。演劇への思いが溢れるヒューマンコメディ。
 
恥ずかしながら京都学生演劇祭をみるのは今回が初めてで、みなさんどんな作品を持ってくるのだろうと期待していました。が、この作品はあまり好みではありませんでした。
始まりの舞台装置や光ものを使った演出はつかみにはよかったです。暗闇から浮かび上がる姿は幻想的でした。ただ進行していく中でだんだんと冷めていきました。まず活舌がよくない。緊張からかもしれませんがさすがに噛みすぎです。会話のテンポ、表情の移り変わりなども曖昧でした。
 
独白のシーンが何度もあるのですが、真ん中サスで前を向いて語る、というワンパターンでした。もう少し工夫ができるのではないでしょうか。舞台装置もせっかくきれいな箱がいかしきれていませんでした。横に積み重ねられた本もたいして活用できておらず残念でした。
 
もちろん、よいところもたくさんありました。まず一生懸命なところ。片原くんはポンコツながらもひたむきでほんといいキャラしていました。こんなやつ同じ劇団にいたら面倒くさいでしょうね。ほかの役者もキャラはよかったです。特に同回生の小田切?さんの笑顔はかわいかったです。題名をみんなで叫ぶのも楽しそうでした。流れていくように過ぎていく毎日のところと人生のふりかえりのところの演出はテンポがよく動きも面白かったので笑ってしまいました。
 
演劇は何かを伝えるための手段だと僕は考えています。伝えることをみせるためにはひとつひとつのセリフや動きに目的や意味が必要です。その意味付けがあまりみえませんでした。何をおもって話しかけるのか。どうしてここではけるのか。伝えたいことは何なのか、など細かいことから大きな主題まで劇団員は理解しつつ行えているかどうかを見直せばよりよい作品となると思います。
 
大したことない人間が偉そうなことばっかりいってごめんなさい、ですがこれも一つの意見として受け取っていただけると嬉しいです。
こんなくそ真面目な劇評でよかったのかと疑問をかかげつつ。

■from 劇団なかゆび(神田真直) to 劇団ACT

 人間でない対象を演じるには想像力が必要である。視点を変えてみて、「なるほどそうかもね」と思わせ、「確かにそうだな」へと至る。物語の筋や舞台はすっきりとまとまっていて、いいところも悪いところも指摘しやすい。そしてどう思うか表明することも容易である。演劇祭の特性をよく理解していると感じさせるの作品であった。しかし、個人的な欲望から言わせてもらうと、枠からはみ出してしまいそうなものがなかった。抑えきれない衝動からくる振動に客席が共鳴するような舞台が個人的には好きである。
 さて、上演の内容へ入ろう。描かれるのはゴキブリたちの生きる世界である。人間の暮らす家を棲み処としているようである。彼らは人間とせめぎ合いながら生きていく。人間による残酷な仕打ちで、家族を失ったという過去をもつ者もいる。知恵を絞り、人間を出し抜こうとする姿は人間の観客からすれば滑稽なのかもしれないが、それは神-人間あるいは宇宙-人間の構図に置き換えてみれば、科学の進歩も滑稽なものと考えることができる。二匹が旅に出るという。別れを惜しむゴキブリたち。その後即座に死別がやってくる。最後は人間の仕打ちがいかに残酷なものであるかをアピールして、終演。
 45分という時間のなかでバランスよく筋立てがなされているが、もっと強いメッセージ性か叙情性があるべきではなかったか。ありふれた物語なのか、そのなかで何かを訴える物語なのか、多くの要素がちょうど中間地点に立ってしまって、一般的に考えても高く評価することも低く評価することもできない結果になってしまったように思える。ただ、今後演劇祭での作品上演を考えている者がいるならば、この作品を一つの基準とすることを勧めたい。詰め込みすぎず、また手放さず、それで観客をどうしたいのかを思案していけば観客賞は容易である。

■from 劇団蒲団座(牧よしお) to LPOCH

 劇団蒲団座の牧よしおと申します。演劇祭お疲れ様でした。今回が初参加初鑑賞だったのですが、とても良い体験をさせていただくことが出来ました。
 まずはLPOCHさん審査員賞受賞おめでとうございます。公演期間中twitterで蒲団座の名前をこっそりエゴサーチした時、LPOCHの方々が暖かい感想を投稿してくださっていたことがとても励みになりました、本当にありがとうございます。私なんぞが感想を書かせていただいて良いものかと戸惑っておりますが、出来る限りやらせていただきます。
 
 あぶくの浮かび上がる音と舞、痛いほど伝わってくる主人公の苦しみ、素早くタイトルを回収しながら舞台を作り上げて魅せる巧みな構成によってあっという間に世界観に入り込みました。見ていて本当にものすごく苦しい、胸が痛くなります、共感しすぎて窒息しかけました。まさに溺れるような感覚です。限界ギリギリまで沈めては息継ぎさせ、そしてまた沈めるような展開。そして一言によって報われる晴れ晴れとしたラスト。最後まで見事な構成だったと思います。身近ながらも結構重いテーマにしっかりと踏み込んで最後まで描ききったのは流石と言う他ありません。
 時にストーリーテラー、時にモノローグ、時に登場人物へと姿を変えて小気味良い台詞回しと共に走り回るユノという存在のおかげで、目まぐるしく転換する場面と場面にも戸惑うことなく見続けることができました。役者の人数や時間制限などの条件の下でこのテーマを扱うのであれば実際最適解だったのではないかと思います。
 三人の役者さんそれぞれキャラの役割と演技がしっかりと噛み合っていたことがとても良かったです。登場人物が少ないこともあってキャラクター自体の個性はシンプルなのですが、それでもしっかりと血の通った人間として見ることが出来ました。途中、役を離れてほぼ素の状態で登場してメタネタで笑いを取って息継ぎをする場面もありましたが、その後すぐにシリアスな場面に戻ってもすぐに引き込むことが出来たのはキャラ造形と演技力によるものでしょう。
 全体的に、舞台装置やキャラクターの役割や衣装のデザインの全てがその制約も含めとても高度に噛み合っていると感じました。衣装もただ世界観を構築するためだけでなくそれ自体によって役割が成立するというか…なんというか…舞台役者キャラ衣装どの要素でもそれを何か他の形に挿げ替えた瞬間成り立っていたものが成り立たなくなるような…そういう計算尽くの構成という意味で特に完成度の高い演出だったと思います。思い返すと各ブロック毎に強烈に世界観を展開してくる舞台がありましたが、そのどれにも勝るとも劣らない舞台構築力だったのではないでしょうか。舞台構築力って言葉があるのかはわかりませんが。
 観客席までも溺れさせる共感性は間違いなく強力な武器だと思います。そしてテーマもまた強く、そのテーマを最初から最後まで貫いていたことがラストでの救済を非凡なものにしているのだとも感じました。とにかく、素晴らしく完成した劇だったと思います。

■from 劇団なかゆび(神田真直) to 劇団抜きにくい釘

 昔話を題材とするものは、無数にある。寝屋川市に古くから伝わるという民話をもとに作られたこの上演であるが、語弊を恐れずに言うと「公的機関による催し物」のようだった。寝屋川市には公式マスコットキャラクター「はちかづきちゃん」が拵えられている。こうした拵え物にいつも足りないのは、「文化への根付き」である。過去と現在を結び付けたように振る舞うが結局のところ、それは現代的構成物以上ものではない。「鉢かづき姫」というたった一点を取り上げるのではなく、文化の複合的な要素を取りまとめなければ、この手の作品は強度を持ちえない。強度がなければ、演劇はすぐに消えていってしまう。「その場限り」であるということに重点を置かなければ、逆説的に「その場限り」に陥ってしまう。劇の最後には、寝屋川への訪問が観客に勧められるが、これを機に寝屋川に足を運ぶ者がいなければならない。
 空間演出に関しては、人数のバランスが不適当だった。場面によっては、もう少し間引くことが必要で、重点で目一杯の俳優を出さなければならなかっただろう。また鉢かづき姫は、鉢を被っている哀しい境遇こそが最も重要な点なのであるが、その境遇の苦しみについては、和らげられている。このことが、物語の緩急を見えにくくしてしまっていたかのように思える。劇団の創作への柔らかい姿勢の現れなのかもしれないが、物語への共鳴の可能性を下げてしまっていた。今年の参加団体は、昨年指摘された、「足下が見えにくい」という劇場的制約を踏まえていて、劇団抜きにくい釘も、これに応じていた。この点については、高く評価できる。音響も、場面に合わせて丁寧に配置されていた。演劇に深入りしていない観客にとっては見やすい上演であった。
 

■from 劇団洗濯氣 to 後付け

・自然な演技だからこそ声が後ろまで届いておらず、聞き取れない。
・照明が似通ったものが多かった。もう少し遊べたのでは。
・別ベクトルからの切り口のお話を何本かいれると、より飽きの来ないものになったのではないか。
・なんでもない物事を、面白く感じられる感性と、それを戯曲にしてしまう勇気、その物事の面白みを更に深めることができる作者、座組み全体の技量には圧巻である。
・更に多くの観客が楽しんでいただける目線として後付け様に必要なのは、お話の方向性を変えたお話を作ったり、お話に補助線を引いたり、道具を有効に活用することであると考えられる。
・とても自由な演劇。途中からじわじわきて世界観にハマった。シュールでセンスのある芝居だった。
・キャストの演技が自然で、狙っていないのが良かった。
 

■from LPOCH(青倉玲依) to 劇団蒲団座

 はじめに、私個人の感情を記す。私はこの団体の上演を見て泣かずにはいられなかった。 団体の事情は薄くではあったが知っていたので、どこか保護者のような感情を抱いていた。 とにかく、頑張れと。序盤の「本番5日前に~」というあたりで、目の奥に強い衝撃。それ にしても早すぎると、心を落ち着かせて見ていたが終盤の「一刻も早く舞台から逃げ出した い!」という言葉。ここで、決壊した。何故私がこのような感情を抱いているのかは、〈団体の事情があまりにも自団体と酷似していた〉という点に尽きるからだ。 このような特殊な状況での観劇であったために少し冷静さに欠けていた面も存在している。以下の批評文はその点を留意いただければ幸いです。
 本作は、もともと上演予定であった冒頭(に加え上演できなくなった旨のメタフィクション)に続き、3つの短編で構成されている。1つ目は夏の出来事、2つ目は質屋での出来事、3つ目は閉ざされた空間からの脱出。いずれも場面が設定されてあるワンシチュエーションの短編である。
 全体を通して感じたことは、この劇団全体の切羽の詰まりようだ。とにかくそれが終始、 ひしひしと感じられた。言葉の吐き方、息遣い、所作、簡易的な照明の変化。音響もなく、役者の2名が板の上に取り残される。いや、最終的には自らそこに立つことを決めたのだ ろう。「本番5日前に~」という過程と決断が、こちらまで見えてくるようだった。冒頭で の個人的な事情を説明した上での観客席の空気はとてもあたたかな印象で、見事に良い方 向に引き付けられていたと感じた。ただ、物語を仕上げるという側面と、どうにもなってしまえという側面が常に隣り合わせ。その葛藤が悪い意味でブレーキをかけていたようだった。観客を味方につけていた分、これはとても勿体なかった。
 評価する上では3つの短編中、最後の『脱出』だけが、効果的な展開と演出だったように思う。『脱出』は、2人の人間が閉じ込められた密室と、演者の本心であったであろう〈1秒でも早く逃げ出したい舞台〉が完全にリンクした環境の中で巻き起こる。このリンクは劇団の切羽詰まった様子も相まって強烈な空間を生み出していた。急遽変更したとはいえ、素晴らしい短編であったのではないだろうか。また、脚本の構成上、役者の自由度が高かった。 故に、アドリブか否かという一種の騙しが役者の技量次第では容易になる。特に、落ちに繋がる伏線は見事だった。

■from 劇団抜きにくい釘(BIG-B) to 西一風

畳が4畳半に敷き合わせられた部屋に机、扇風機、棚と訳の分からない魚の置かれた舞台。その上で西一風独特の空間を生み出す。京都学生演劇祭という祭典をがらっと西一風の空間に変えてしまうその技法は見事だった。「それえでは西一風『お盆』上演します。」というアナウンスがあってから、男二人が見つめ合うこと5分程。あまりにも長く感じる静寂の時間を終わらせる第一投の台詞が「遅いね。」いや、この芝居の始まりが遅いわ!と思わず心の中でツッコミを入れてしまったが、その始まりこそが全ての観客を西一風の作り出す空間に引き込むための手段であったのではないかと感じている。特に演劇祭では、今まで見たことがない団体に触れることもあり、その団体の作る芝居をどういう目で見ればいいのか分からないこともある。そういった客に西一風がどういう団体なのかを分からせる5分だったのではないかと思う。(本当は5分も経っていないはずだが、ただ見つめ合うだけの時間が体感的に非常に長く感じた)
 
 さて、今回の「お盆」だがただのシュール系コメディという訳でも無く、どこか推理要素を含んだ芝居であるとも感じた。同じ空間をループする男。馬の被り物に顔を隠した男が二人。冬の季節を思わせる帽子とゴーグルで顔を隠した男が一人。そしてお盆というテーマ。何故か恵方巻きを食べ始める登場人物。初見では難解な個所が多く、再度見たいと思える作品だった。この芝居を見ている間、様々な考察が頭を巡るということ自体もまた楽しみの一つだった。
 
 ただ一つの問題としては、やはり声が聞こえないこと。芝居の都合上、大きな声が出しにくいのもあるだろうし、馬の被りものもある。さらには会場の設計上、客席の奥まで声を飛ばすことは至難の業。客席奥にいた自分にはほとんど声が聞こえなかった。西一風のあの世界感を出すための声の出し方なのかもしれないが、それでも、声が聞こえないというだけで面白さが激減してしまうので、何かしらの策を講じて欲しい。
 
 全体的に見て、楽しめる作品というよりは、楽しむ作品であると感じた。与えられたテーマを元に、受け手(観客)が楽しみ方を見出す。そんな作品だった。

■from 後付け to 劇団洗濯氣

 ある少女が、家族ではない者同士が互いに協力し合いながら共同生活を行うひのもと家に迷い込む。その少女は「かみさま」と称する人物に依存し、自らを輝かせるために自分以外のものをすべて消し去ろうと思っている。ひのもと家の住人は少女の考えを知らないまま少女を家族として受け入れ暖かく扱うが、少女はそれに戸惑い拒絶する。少女がひのもと家で生活していくうちに、少女の考えとは対照的な、他者と関係し他者を受け入れていきながら生きていく住人の姿を目にし葛藤する。その葛藤の中で街を爆破し、自分以外を消し去るが、一人難を逃れたひのもと家の大家がそれでも少女を家族として扱おうとする。爆破後、かみと称する人物が少女を見放し、少女はひのもと家の今後を想像しながら考えを深めていく。
 この作品では自己が定まらない少女が、自らを輝かせる、つまり自らの存在や生きる実感を得るためにあがく上での考えの変化を描いている。構図としては、他者を否定することで自らの存在を確立させようとする少女と、他者を受け入れ協力していくひのもと家の住人が対照的に描かれていて、少女がひのもと家の住人の考え方に戸惑い葛藤するものの考えを変化させていくというものである。作品の大きな方向としては少女の独白あるいはかみさまとの対話、そしてひのもと家の住人の生活の細やかな描写によって他者を肯定することの重要さを示唆するものであった。
ひとが他者、つまり社会と関わりを持つことによってはじめて自己を確立できる、他者なしでは自らの存在、いいかえると生きる意味や生きがいを見出せないというのは確かに正しいように思える。だがそうでない考えを持つ少女のあがき方が現実離れしている印象であった。少女が現実に根差しながら他者を排除して生きようとし、それに失敗する姿が描かれていたら作品のテーマがより深い意味で観客に実感されるのではないか。また、ひのもと家の住人の考えは、自分自身よりも他者を最優先に考えるものであり、それは美しいものだが、現実的ではないように感じられる。作品としてのテーマを伝える観点においてはひのもと家の住人たちをある意味理想的な考えを持つ人々と設定することで明確にはなるが、目の前で起こっている舞台という性質上、明快な構図・論理よりは、あたかも現実であり得るような困難に理想的な考えでは対処できないといったような場面があると、より舞台として観客に感覚的にテーマが伝わりやすいのではないか。そういう意味では認知症になる近隣住人の情景は印象的でよいものと受け取ったことは付け加えておく。

■from ヲサガリ(山下耕平) to 劇団洗濯氣

 自分が太陽になって輝くためには、周りの星を消してしまえばいい。かみさまにそう言われて、りんは「ひのもと荘」にやってくる。ひのもと荘の人びとは家族であるわけでもないのに、無愛想なりんに優しく接してくれる。交流を拒み気味のりんも徐々に心を開いていくようだったが、、、結局はかみさまのいうとおりに、ひのもと荘の人びとをみんな殺してしまう。そうしなかった世界、皆が生き続けた世界を思い描いて、「太陽の輝きも周りの星があってこそ」ということにりんは気づいたけれど、もうそれは戻ってこないのだった。
あらすじを述べれば以上のようなものであったと思う。舞台には長めの食卓とそれを囲む椅子。りんとかみさま、りんと「世間」というような抽象的なシーンをところどころにはさみつつも、基本的にはひのもと荘の面々の具体的な生活が丁寧に描かれていた。(特にひのもと荘のシーンにおいて)若い役者が多いにも関わらず幅広い年齢層の役を説得力をもって演じており、好印象であった。また、照明はじめ演出は綺麗につくられているシーンが多かった。
 全体を通じて、ひのもと荘のシーンとりんの心象風景的なシーンの釣り合いが取れていないような印象を抱いた。前者が非常に具体的で、住人たちの心情の揺れもわかりやすく描かれていたのに対して、後者は言葉だけに見えてしまう部分があった。太陽になりたい、輝きたいという欲求は言葉だけでもたしかに理解はできるが、それ以上の背景や思い入れがみえてこない。りん自身のなかにその言葉以上のイメージが存在していないのではないかと思わせる。あるいは、言葉だけで行動に至ってしまう若者の姿が描かれていたのだ、ということもできるだろうか。
りんが直接手を下すという展開には(もちろんそのシーン自体が描かれたわけではないが)正直言って驚いた。りんはそのような事件に対して傍観者のままいるのではないかとどこかで思っていた。きっとは彼女は傍観者であったとしても同じように自分をせめたのではないか。加害者になってしまうという展開はあまりにも過酷ではないか。あるいは、重すぎるのではないか。言ってしまえば、脚本もまた言葉だけでの暴走をしてしまっているような感がある。